公正中立な
金融市場の創設を目指して
適正な金融市場運営を行う
「完全無欠の仲介機関」。
その実現のために若き3人が起ち上がった。
日清戦争(1894~1895年)後の企業設立ブームに伴って資金需要が高まる中、1899年(明治32年)に短資会社の前身となるビル・ブローカー(手形や証券の仲介業者)が誕生。その後、相次いでビル・ブローカーが設立されました。
大正時代に入り、名古屋銀行(三菱UFJ銀行の前身のひとつ)に勤めていた上田要は、ある疑問を抱いていました。多くのビル・ブローカーは銀行が経営しているケースが多く、そのような形態では公正中立な運営ができないのではないかと考えたのです。
そこで上田は、名古屋銀行京都支店の同僚、柴沼静雄、田澤哲三郎とともに、銀行から完全に独立したビル・ブローカーの創業を決意。1918年(大正7年)6月20日、大阪の地で匿名組合上田商店を創業しました。
画期的だった有担保コールの原則。幾多の金融恐慌の中で信頼を集める。
上田商店は公正中立な運営により金融市場の透明性を高めるとともに、資金の貸借をより安全で安定したものとするために、借り手の担保品を確保する、有担保コールを取引の原則としました。当時の銀行間市場はほとんどが無担保で取引されており、適正とはいえない金利で貸し出されていたり、回収が困難になることも多くありました。
無担保による盛んな資金調達が行われていた大正末期~昭和初頭、金融市場にほころびが生じます。その最たる例が1927年(昭和2年)の昭和恐慌です。関東大震災によって損害を受けた企業が多数出たために銀行の資金繰りが悪化。無担保で貸し出した資金の回収が滞る悪循環に陥り、次々と銀行が休業に追い込まれる中、多くのビル・ブローカーが廃業していきました。その一方で、上田商店は有担保を原則としていたため難を逃れるばかりか市場からの信頼をより強固なものとし、さらに資金を集めることになりました。また、この昭和恐慌を機に取引の安全性を図るため、有担保取引の原則や長期物取引の禁止を主としたコール協定が締結され、有担保コールが主流になっていきました。
顧客や市場からの信頼を集め、金融界のリーダー格に。
誠実な運営で安全・確実な取引を徹底していた上田商店および代表の上田 要は、大阪の金融界でリーダー的な存在になっていきました。その名は東京にも届き、1931年(昭和6年)には、犬養内閣の大蔵大臣を務める高橋是清から金利政策の相談を受けるなど、政財界から注目される存在に。首相や日銀総裁からも厚い信頼を寄せられていました。
創業理念
会社の礎として
現在まで受け継がれる創業理念
社訓「報本反始」
社訓として創業時から仕事の原点としているのが、中国の古典「礼記(らいき)」から取った「報本反始」。この100年の間に金融業界も含め世の中は大きく変化しました。その中でも報本反始の精神でチャレンジを続けることで時代の変化に速やかに対応し、金融市場を安定的に支えることで社会への貢献を果たしてきました。
報本
現在の自分があるのは、社会や親、
周囲の方々のおかげであることに感謝し、
その恩に報いていくこと
反始
日々の決断や行動の際に、
物事の始めに立ち返って本質を見極める。
「良い」と思えば続け、「悪い」と思えばすぐにやめて新しいチャレンジを始める
行動規範「三セイ主義」
短期金融市場を担う自覚と責任を持って企業活動を行っていくために、「三セイ主義」を行動規範として全社員が業務を遂行。
お客様に、そして社会に貢献していくためのベースとして創業時から受け継がれています。
正
法令やルールを遵守した、
良識ある企業活動
清
公私を峻別し、
道徳意識や良心に基づく行動
誠
お客様の利益を重視した質の高い
サービス提供、誠実・健全・公正な業務運営
シンボルマーク
三セイ主義をベースに、時代の流れとの調和やマネーマーケットの円滑な運営を表現したシンボルマーク。創業時は三本の棒が三角に組み合わされた「三つもたれ」を社章としており、「正」「清」「誠」を象徴するとともに、社員それぞれが協力し合う意味も込められています。
創業時の社章三本の柱を、三人の者が、二本ずつ持ってくるよう 命ぜられた使いが、三本の柱を三角に組み合わせて持ち帰ったという、能狂言の「三本の柱」から着想。
年表
1918年〜
大正7年
-
上田要を営業主として、匿名租合上田商店創業(大阪市東区淡路町5丁目10番地)
大正10年
-
大阪銀行集会所組合銀行により、特定ビルブローカーに指定される(上田商店、奥山商店、司城商店の3社)
大阪において外国為替業務(外国為替ブローカー業務)開始
大正12年
-
東京コール市場取引再開
大正13年
-
東京市日本橋区桧物町9番地に東京支店を設置、東西両市場の金融の疎通を図る(当初1923年11月の出店を予定したが関東大震災が起こったため1年延期)
大正15年
昭和元年-
本店新築、現在地(大阪市東区高麗橋)に移転
大阪株式取引所の国債取引員の免許を受ける
昭和2年
-
金融恐慌に際し、本支店全力を挙げて金融界の安定と復興に努力貢献
また、有担保コールの確実性と妥当性を実証した
1928年〜
昭和3年
-
創業満10年
半期ごとの総取扱高を見ると、昭和3年6月期には前期の1.5倍の47億円、その半年後には72億円と、業界状況が芳しくない中安定的な成長を遂げる日銀(大阪支店)と当座取引開始を許可(現存短資会社では初)される
日銀(本店)と当座取引開始を許可される
昭和4年
-
上田要、約8ヵ月にわたる欧米各国歴訪に出帆。各国金融要人と会談(10月21帰朝)
昭和6年
-
大蔵省証券の無保証金買入につき大蔵大臣の許可を受ける
昭和恐慌のもと、上田要、12月13日に蔵相に就任した高橋是清の招きを受けて上京、「金利を安くしようと思ったら何から始めるか」の下問に答える
満州事変勃発や、英議会での金本位制離脱立法の可決等に由来する金融不安から、コール市場混乱(翌日物レート日歩2銭5厘と1924年来の高値示現)
昭和7年
-
銀行法に基づく無資格銀行の整理期間満了。ビルブローカー銀行消滅(銀行法施行時には早川、柳田、藤本各ビルブローカ一銀行が存在)
昭和8年
-
東京支店現在地に新築・移転(現東京本部建物の2代前の建物)
日銀と貸出取引の承認を受ける
昭和9年
-
関西地方は早朝から大風雨に見舞われ(室戸台風)、綿糸・株式市場などは休場、手形交換時間は1時間延長となる。当社は金融市場の安定に尽力、23日(日)に臨時出勤を行って対応
上田要、紺綬褒章受章
昭和10年
-
ビルブローカー八木商店設立(大阪市、八木短資の前身)
昭和11年
-
二・二六事件勃発も、コール市場は冷静に対処
上田要、満州・北支を視察(10月6日帰朝)
昭和12年
-
匿名組合を株式会社上田商店に改組、上田要、取締役社長に就任(専務取締役柴沼静雄、田澤哲三郎)資本金200万円
六甲山荘竣工開設(着工3月)
当社ら主要ビルブローカー6社(上田、藤本、奥山、柳田、山根、早川)、大蔵省・日銀の了解の下にビルブローカー協会を設立。上田要、理事に就任
1938年〜
昭和13年
-
創業満20年
昭和15年
-
銀行等資金運用令に基づき、大蔵省からビルブローカーの指定を受ける
昭和16年
-
上田要社長、全国金融協議会委員を委嘱される
上田要社長、ビルブローカー協会会長に就任
昭和17年
-
短資業統制組合設立。上田要社長、理事に就任(18業者が組合員となる。理事長・日銀営業局長小林正一郎)
上田短資株式会社と改称
昭和18年
-
全国金融統制会、10月以降金融機関(短資会社を含む)の土曜日半休制廃止を会員宛に通知
昭和19年
-
上田要社長が世話役となり関西金融界首脳の会合「木曜会」が発足(毎週木曜日開催を申合せ)
日銀、短資取引担保登録国債代用証書制度を創設(1945年3月19日実施。本構想は上田要社長の進言による)
1945年〜
昭和20年
-
上田要、取締役会長に就任。柴沼静雄社長に、田澤哲三郎副社長に就任
短資業協会設立
昭和21年
-
金融緊急措置令実施に伴い、大蔵省告示第29号をもって同令施行規則第15条に規定するビルブローカーとしての指定を受ける
上田要会長、大阪地方通貨安定推進委員に選任され、幹事に就任。一万田日銀総裁提唱の「救国貯蓄運動」の一翼を担う
昭和22年
-
上田要会長、日銀の委嘱により大阪府産業再建推進本部金融班員に推薦される
1948年〜
昭和23年
-
上田要会長、関西経済連合会常任理事に就任
創業満30年
昭和24年
-
貸金業等の取締に関する法律(6月30日施行)に基づき、貸金業の届出を行う
一万田日銀総裁来阪時の各界代表者懇談会において、上田要会長金融公債構想を建議
昭和25年
-
日銀、手形割引市場育成のため、短資業者に対し輸入貿易手形売買に伴うつなぎ資金の貸出限度額設定(日銀融資枠上田1億円、山根・東京各5000万円)
綿花手形の割引を開始(日銀融資枠、上田・山根・東京各5億円)
昭和26年
-
日銀、レギュラーウェイ実施(6月1日)に伴い、短資取引担保株式預り証制度を創設
昭和27年
-
東京外国為替市場開設
本社において外国為替業務を再開
昭和28年
-
日銀、手形市場育成のため紡績手形(紡績10社振出し、短資業者あて約束手形)を市場割引対象として指定、当社は取扱高の大部分を占める(日銀、9月26日決定、10月1日実施、10月5日初取引成立)
昭和29年
-
法律第195号『出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律』公布施行(短資会社の準拠法となる)
昭和30年
-
日銀、コールレートについて設けていた指導レート(最高限度)の廃止を決定
昭和31年
-
大蔵省告示第47号をもって、大蔵大臣の直轄短資業者として指定を受ける(上田、東京、山根の3社)
大蔵省告示第84号をもって、短資会社は証券取引法上の金融機関として指定を受ける
昭和32年
-
「臨時金利調整法」に基づくコールローン利率(翌日物レート)、ブローガレージ規制廃止
1958年〜
昭和33年
-
創業満40年。「四十年の歩み」を刊行
昭和34年
-
上田隆三が社長に就任。柴沼社長、田澤副社長退任。それぞれ代表取締役会長代理に就任
日銀、初めて準備預金制度を発動
昭和35年
-
当社本社における外国為替売買の仲介業務を本月限り廃止
前社長柴沼静雄死去
昭和36年
-
岩戸景気の進展を背景にコールレート高騰。月越物6銭5厘(市場最高レート)を示現
昭和37年
-
短資協会創立(上田、東京、日本割引、山根の4社。協会長山本米治)
上田隆三社長、短資協会理事に就任
昭和38年
-
創業満45年。「四十五年の歩み」を刊行
当社、外国為替仲介業務を東京市場において開始(外国部設置)。東京外国為替仲立人協会へ加入
昭和39年
-
日銀、短資会社に一般貸出を実行(320億円)
上田隆三社長、関西経済連合会常任理事に就任
昭和40年
-
上田要、勲四等瑞宝章受章(業界初の叙勲)
昭和41年
-
日銀、短資会社に対し所有政府短期証券の買戻条件付売却を実施
日銀、債券の無条件買入(いわゆる買切りオペ)実施
本社社屋改築のため仮店舗(大阪市東区高麗橋2-24)へ移転
昭和42年
-
日銀、戦後初の国債買オペを実施(653億円)
本社新社屋竣工(現在地)、仮店舗から移転
元副社長、田澤哲三郎死去
東京支店新店舗着工
1968年〜
昭和43年
-
創業満50年。「五十年の歩み」を刊行
東京支店新社屋竣工式(7月29日新店舗に移転)
昭和44年
-
コールレート年利建移行(取引レート刻み幅0.125%)
昭和45年
-
コンピュータ(バロースL2000)導入
昭和46年
-
手形売買市場発足(2~3ヵ月物、取引レートの刻み幅0.125%)、コール2ヵ月以上物廃止
日銀、売出手形制度を実施(対象:短資会社、金融機関)
東京外国為替市場閉鎖(21日再開)
昭和47年
-
東京ドル・コール市場発足
日銀、手形売買市場向けの売出手形売却を実施
日銀、手形売買市場で初の買オペ実施
昭和48年
-
ドル売り激化から東京外国為替市場閉鎖(14日再開)
欧州外国為替市場閉鎖に伴い東京外国為替市場閉鎖(19日再開)
上田短資戸塚寮(独身寮・家族寮)竣工開設
オイルショックの混乱の中、日銀、公定歩合2%引上げ
昭和49年
-
東京外国為替市場閉鎖(23日再開)
昭和50年
-
短資会社、コールレートに関しては申合せ等は一切行わないことを再確認
昭和51年
-
上田要会長死去、叙位従五位を賜る
昭和52年
-
東京支店を東京本部に組織変更
1978年〜
昭和53年
-
創業満60年
「物故役職員供養塔」を上田要ゆかりの地、兵庫県氷上郡春日町棚原に建立し、開眼法要を営む。以後毎年1回物故者遺族等を招いて墓前祭開催
日銀、初の入札方式による国債買オペレーションを実施
昭和54年
-
コールレートの建値廃止(コールレート自由化)。翌日物コール取引を廃止、新無条件物、2~6日物コールを新設
CD(譲渡性預金)市場創設。当社は流通取扱を開始し、現先取引手法を開発
昭和55年
-
東京外国為替市場の為替取引、ファームオーダー方式に移行
手形売買市場における期間を山越え方式から順月方式に変更
昭和56年
-
割引国債.コール取引担保適格となる
日銀、所有政府短期証券の対市中売却(対象先:短資会社、農中、全信連)を決定
昭和57年
-
日銀、海外の高金利を背景とする円安化に対処し、短期市場金利の高め誘導を開始(秋口まで)
短資会社、改正証取法による政府短期証券売買の認可を取得
日銀、所有政府短期証券を今後必要に応じ市中(売却先短資会社)売却することを決定
昭和58年
-
上田六甲山荘改築竣工式
短賢会社、国債振替決済制度に加入
昭和59年
-
上田エンタープライズ(株)設立(100%子会社、取締役社長石田恭一)
上田ハーロー(株)設立(100%子会社、取締役社長上田隆三)
竹下登大蔵大臣、吉田正輝銀行局長を同伴し本社を訪問、営業状況を視察
昭和60年
-
コール市場に無担保コール取引(オーバーナイト物、7日物)を導入
有担保コール取引に2・3週間物を新設
無担保コール取引に2・3週間物を新設
大口定期預金の金利の自由化に伴い、短資会社、インターバンク預金取引の媒介業務を開始
当社、外国部門の営業を上田ハーロー(株)へ譲渡。英国MAI(ミルズ・アンド・アレン・インターナショナル)社と資本・業務提携実現(当社74%、MAI社26%出資)
大蔵省、短資会社の政府短期証券現先売買を認可
昭和61年
-
日銀、政府短期証券の現先方式による対市中売却を開始
大蔵省、短期国債の公募入札を初めて実施(20日発行)
日銀、短資会社を介してのCD買オペ開始
上田ビル別館(新日本橋ビル)建築地鎮祭
無担保コール取引にウイークエンド物(週末越え)を新設
上田軽井沢山荘新築地鎮祭
本邦オフショア市場発足(JOM)。短資会社、同市場にかかる取引の媒介業務開始
昭和62年
-
上田ビル別館(新日本橋ビル)竣工式
社長に上田元彦就任、会長に上田隆三就任
上田軽井沢山荘竣工式
無担保コール取引に2~6日物を新設
国内CP市場創設。短資会社、流通取扱業務を開始
1988年〜
昭和63年
-
創業満70年。「上田短資70年の歩み」、「短期金融市場取引の解説」の改訂版を刊行
日本銀行金融ネットワークシステム(日銀ネット)による対外オンライン稼働(当社加入)
日銀、「短期金融市場の今後の運営について」を発表(新金融調節方式の導入)
日銀、期間1ヵ月未満の手形買オペを導入
有担保コール市場の1~3週間物を廃止(翌日物~6日物までに短期化)
無担保コール市場に1~6ヵ月物を新設
無担保コール市場及び手形売買市場における2週間以上の取引をオファー・ビッド方式に移行
昭和64年
-
日銀、現先方式によるCDオペを実施
無担保コール市場におけるオーバーナイト物から1週間物及び手形売買市場における1週間物の取引をオファー・ビッド方式に移行
上田短資ビル竣工式(現東京本部ビル)
上田短資市川独身寮(32室)竣工式
上田短資市川寮新設に伴い戸塚寮を閉鎖
無担保コール市場及び手形売買市場物に7ヵ月~1年物を新設
上田大阪エンタープライズ(株)設立(100%子会社、取締役社長石田恭一)
上田バトラー・トレジャリーサービス(株)設立(英国MAI社と合弁、当社60%、MAI40%出資。取締役社長上田元彦)
日銀、短資会社からのCP買オペを実施
短資会社、金融先物取引業の許可取得、取扱を開始
平成2年
-
日銀、TB現先買オペを開始
短資会社、TB(割引短期国庫債券)の売買業務を開始(6月28日、大蔵大臣許可を取得)
有担保コール市場における取引をオファー・ビッド方式に移行(ただし、5億円未満の取引は短資会社呈示の気配レートによる)
日銀、「金融調節手段の整備等について」を発表(短期金融市場運営の見直し)
平成3年
-
日銀、手形買オペに従来の指値方式に加え、入札方式を導入
上田隆三会長、勲四等瑞宝章受章
無担保コール1ヵ月以上物に先日付取引(スポット物)を新設
平成4年
-
手形売買市場に先日付取引(スポット物)を新設(1ヵ月以上物)
平成5年
-
無担保コール、手形売買の先日付取引に1~3週間物を追加
全銀システムの同日決済化実施、短資取引の取扱時間を為替決済時点まで延長。半日物取引拡充(夕半物新設)
上田大阪エンタープライズ(株)が上田エンタープライズ(株)を吸収合併(取締役社長石田恭一)
平成6年
-
短資会社、日本証券業協会に特別会員として加入
コール市場に「トムネ」取引を新設
コール市場に「末初物」取引を新設
コール市場に「スポネ」「オッド物」取引を新設。コール・手形取引のスタート日、期間設定を完全に自由化
東京外国為替市場の取引時間自由化スタート(いわゆる24時間取引)
1995年〜
平成7年
-
日銀、円高・株安に対処し短期金利の低め誘導を実施。コールレート急低下し、無担保ON物は一時公定歩合(1.75%)を下回るレートが出現
日銀、当面の金融調節方針を発表、短期市場金利を公定歩合を下回る水準に誘導
日銀、即日決済の入札式手形売りオペを導入
日銀、公定歩合を0.5%引下げ(商業手形割引歩合0.5%と史上最低水準)、「短期市場金利は、平均的にみて、新公定歩合をやや下回って推移することを想定」とコメント
無担保コールオーバーナイト物、有担保コール翌日物取引に24時間物を新設
上田ハーロー(株)開業満10年
平成8年
-
上海駐在員事務所開設(短資業界初の中国進出)
短資会社、レポ(現金担保付債券貸借)取引を開始
平成9年
-
社長に伊佐山慎太郎就任、会長に上田元彦就任
上田短資証券(株)設立(100%子会社、取締役社長大沢孝:11月7日営業開始)
有担保コール・手形売買の取引期間を自由化
日銀、レポ市場向けオペを開始
1998年〜
平成10年
-
創業満80年。「上田短資八十年記念誌」刊行
平成11年
-
日銀追加的金融緩和(ゼロ金利目標への誘導)
政府短期証券の市中公募入札開始
平成12年
-
手形オペ直接方式の導入(短資経由オペの廃止)
日銀ゼロ金利解除(O/N金利誘導目標0.25%、公定歩合0.5%)
株券レポ取引を開始
平成13年
-
日銀、当座預金決済および国債決済のRTGS化
短資取引約定確認システム開始
日銀、ロンバート型貸出制度の導入
日銀、政策目標を金利から日銀当座預金残高(4兆円→5兆円)に変更(量的緩和政策の導入、ゼロ金利政策)
社長に池田彰夫就任、顧問に伊佐山愼太郎就任
上田短資と八木短資 合併し、上田八木短資となる
平成14年
-
日銀は、金融機関に対する潤沢な資金供給のための措置を実施、具体的には、期末に向けた潤沢な流動性供給、長期国債の買い入れの増加(月8千億円→1兆円)、ロンバート型貸付の公定歩合適用期間の拡大等を実施
短資協会担保センターによる共同受渡センター業務開始、国債現先オペ開始
日銀、金融機関保有株式の買い入れを開始
平成15年
-
日銀、資産担保証券の買入れ開始
平成16年
-
国債補完供給制度の導入
平成18年
-
日銀、金融市場調節方針につき、操作目標を日銀当座預金から無担保オーバーナイトコールレートに変更し、無担保コールO/N金利を概ね0%で推移するように促す(量的緩和政策の解除)。また、当座預金残高は短期の資金オペを利用して所要準備額に向けて削減することを決定
守田道明社長就任、池田彰夫顧問就任。資本金を50億円に増資
日銀、共通担保資金供給オペを開始
日銀、金融市場調節方針を変更(ゼロ金利解除、無担保O/N金利を0.25%、基準貸付利率を0.4%に引き上げ)
日銀、公定歩合の名称を基準割引率・貸出利率に変更
平成19年
-
上田八木証券設立
バックアップセンター稼働開始
2008年〜
平成20年
-
創業満90年
「金融政策の枠組み」の下での情報発信の充実を発表
リーマンショック発生
マーケット営業部、営業推進部を設置
平成21年
-
情報システム部、内部監査準備室を設置
日銀、金融機関保有株式買い入れ
日銀、企業金融の支援と金融市場の安定を図るための措置を発表(企業金融支援策、金融市場安定化措置)
日銀、適格担保の範囲の拡充を発表
日銀、臨時決定会合を開催、金融緩和の強化を決定(固定金利・共通担保資金供給オペ<3か月、金利0.1%>の導入)
日銀、「中期的な物価安定の理解」の明確化を公表
平成22年
-
内部監査室の設置
日銀、米ドル資金供給オペの再開
日銀、成長基盤強化の資金供給オペの導入
日銀、固定金利・共通担保資金供給オペ(6か月)の導入)
日銀、包括的金融緩和政策を発表(金利誘導目標の引下げ<0.1%→0~0.1%>、「中長期的な物価安定の理解」に基づく時間軸の明確化)
日銀、資産買入れ等の基金設置(ETF,JREITの購入開始)
日銀、資産買入れ等の基金によるETF,JREITの購入を発表
平成23年
-
日銀、東日本大震災による被災地金融機関支援のための資金供給オペを導入
平成24年
-
日銀、金融緩和の強化(「中期的な物価安定の目処(消費者物価前年比で2%以下、当面は1%をめど)、資産買入基金の増額(55兆円→65兆円)」)を発表
平成25年
-
日銀・質的・量的金融緩和、長期国債、ETF,JREITの買入れ限度額の拡大、マネタリーベース目標(年50兆円)
新業務基幹システムの稼働
平成26年
-
上田晶平社長就任、相談役に守田道明就任
日銀・質的量的金融緩和の拡大(マネタリーベース増加額を80兆円に拡大、ETF,JREITの買入れを増額、長期国債買入れの平均残存期間を7~10年へ長期化、毎月の国債買入れ額は8~12兆円)
トラディショングループと提携
平成27年
-
香港にUeda Financial Limited を設立
日銀「金融政策決定会合の運営の見直しについて」を発表(2016年初からMPMは年8日開催、展望レポートの公表は2回→4回に)
債券レポ取引電子システム(UYRS)の稼働開始
日銀・質的量的金融緩和の補完措置(長期国債買入れの平均残存期間を7~12年へ更に長期化、国債補完供給の要件緩和等)
平成28年
-
上田八木・金融政策サーベイの公表開始
日銀マイナス金利付き質的量的金融緩和の導入(日銀当座預金を+0.1%付利、0%、マイナス金利適用に区分)
上田元彦会長、旭日小綬章受章
日銀「《質的・量的金融緩和》導入以降の経済・物価動向と政策効果についての総括的検証」を公表
日銀・金融緩和強化のための新しい枠組み「長短金利操作付き質的量的金融緩和」(イールドカーブコントロール、長短金利操作のための新型オペレーションの導入、オーバーシュートコミットメント)
国債店頭取引清算取次業務の開始
平成29年
-
インターバンク市場の取引開始時刻、原則8:30からに
日経平均株価2万円台回復
平成30年
-
国債決済期間短縮化、銘柄後決めGC開始
創業満100年